「成長」を餌に過労に追い込むのは、やめにしないか
“成長”か
これほどベンチャーに愛される言葉もないな
素晴らしい言葉だ
…しかしな
自分の力を行使するでもなく、他力本願で従業員の過労を願う
お前が言う“成長”も随分と生臭いぞ
血だまりの臭いが鼻につく、そう思わないか?
■最終面接で、役員から言われたこと
筆者の就活中、「圧倒的成長」を謳っていた企業の最終面接で、役員の方とこんなやりとりがありました。
「カジちゃんの中で『成長』のために必要な要素って、なんだと思う?」
「えっと・・(少し考えてから)①好きで頑張れることを見つけること」
「あーうん」
「②その領域で目指したい目標を定めること」
「はいはい」
「③その目標に向かって正しい努力をすること、だと思います」
「・・・・・・」
「・・・はぁ(ため息)」
(カジちゃん、背筋が伸びる)
「あのさあ、全ッ然分かってないよね。そんなんで成長できると思ってるの?」
(カジちゃん、ここでおしっこ漏れかける)
「成長に必要なのってさ、何よりも量なわけ。僕はそういう答えを求めてたのにさ、なによ『好きなことを見つける』って。選り好みしようとしているわけ?完全に社会舐めてるよね。」
(ジョバー)
■「量」は目的でなく、結果だと思う
まず上記は面接でのことだったので、そういう意味では、私の対応は間違っていたと言えます。
面接官も明確に「そういう答え(量)を求めていたのにさ」と言っているので、それを読み取り、回答・提供できなかった筆者の実力不足です。
ですが一旦、それは置いておいて。
個人的な意見としては、最初から「量」をこなすことを”目的”として行動するのは、効率が悪いんでねえかなあと思うわけです。
面接官にボロカスに言われましたが、それでも「好きなこと」を先に見つけるべきです。そしてその”結果”として、気付いたら「量」こなしちゃっているような状態が好ましいでしょう。
例えば筆者は、日中は営業マンをしたりブロガーとして活動していますが、これは世を忍ぶ仮の姿で、本業はミュージシャンだったりします。
有難いことに、私の技術を認めてくださる方がいて、出演依頼をいくつも頂戴しています。
もちろんその技術を身に付ける為に、多大な時間を投資してきましたが、当初から「圧倒的な練習量をこなすぞ!」と意気込んでいたわけではありません。
その練習量は、あくまで結果としてみればそうなっていただけのことです。
初めてライブ演奏を経験してからは、ライブが近づくとそのことしか考えられなくなり(①好きで頑張れること)
お客様に出来るだけ良い演奏を提供したいと思うようになり(②目指したい目標)
他のミュージシャンの演奏動画で勉強したり、練習メニューを考えてそれをこなすようにしていました。(③正しい努力)
気付けば、寝る間も惜しんでこういうことをしていましたが、少なくとも寝る間も惜しむことを”目的”にしたことはありません。あくまで”結果”です。
■「成長」というゆるふわ言葉
「成長」という言葉が便利なのは分かります。ですがその反面、使われ方が非常にゆるっとふわっとしており、安易に使うと危険性も孕んでいると思うのです。
筆者はあくまで、好きなことを見つけてから、そのために成長するのが大切だと考えています。その結果として、量をこなす場面も出てくるでしょう。
一方で、最初から「成長!成長!」とだけ謳って、なんでもかんでも、それこそ嫌いなことまで寝る間も惜しんで量をこなして、結果過労(ここでは精神的の意)に追い込まれるのは非常に不幸なことだと思います。
ここからは推測に過ぎませんが、結局ベンチャーが「成長」とよく言うのは、その背景に人手不足であったり、まとまっていない業務があり、それをこなさせるための「餌」ではないかと思います。
そのために、中身のないゆるっとふわっとした「成長」を使って、従業員を過労に追い込んでいるだけではないでしょうか。
その方が手っ取り早いのでしょうが、従業員を過労に追い込まないためには、その業務が「楽しくなるような」「好きになるような」工夫をして、好き好んで量をこなすようにさせるのが、正しいマネジメントではないかなあと、思った次第です。
んま、そんな周りが変わるのを待っててもしゃーないので
イチ営業マンとして、自分から「好きになれる業務」を勝手に創り上げちゃいますか。
おしまい。